初めまして。長原多賀子です。
私は24歳と22歳の息子を持つシングルマザーで、エステティシャンです。この世界に入ったのは生活費を稼ぐためでした。
主人のお給料が当時、数万円。結婚当初、共働きでしたが、子供ができた事で出産と同時に私は仕事を辞め、主人1人のお給料で生活することになった訳ですが、団体職員だった主人は、5年かけて払うはずの積立奉仕金を、共働きの内に完済しようと3年に短縮したため、その支払いのために手取りが数万円。しばらくは、共働きだった頃の貯金でやり繰りしていましたが、貯金も底をつき、生活が苦しくなった事がきっかけでした。
実は、決してこの仕事が好きだったから入ったわけではなかったのです。
1998年、自宅の一室、折りたたみの座椅子を使ってまつ毛パーマから始まりました。あれから21年が経とうとしています。当時、1歳半と3歳だった息子たちも、もう大人になり自分の道を歩み始めました。
長いようであっという間の21年でした。
その中で、いくつもの転機がありました。
離婚、起業、自己破産、ディーラーのインストラクター、サロン再開、独立、海外ボランティア、未病ケアエステFC展開。
これを目にされている方は、今の自分の技術やエステの方向性に悩んでいる方か、未病ケアエステに興味を持たれてる方か、長原多賀子ってどんな人?という感じだと思いますが、私が何故、この業界に入ったのか、どんな道を歩んできたのか、何故エステなのに未病ケアなのか、トリムリターンが何故リピート率80%以上の結果を出したのかなどを書いていきたいと思います。
それは1998年27歳の時でした。
帯を縫う内職やネットワークビジネス(これは私には合わなくてすぐやめました)を始めましたが、それでも生活は成り立たず、一念発起し福岡でエステをやってる叔母にまつ毛パーマを習い、自宅でまつ毛パーマのサロンを開く事になりました。
6畳の自宅の一室。折りたたみの座椅子を施術ベットにしてのスタートでした。
チラシを作るのに夜も眠れずキャッチコピーを考えました。そのキャッチは何だっかというと
「目は口ほどに物を言う」
通勤時間などを狙って駅でチラシ配り。ほとんど受け取ってもらえませんでしたね。それでも友人からの知人へと少しづつ紹介のお客様が増えてきた頃、そのお客様の1人がアロマのハンドマッサージのセミナーを紹介してくれました。
興味本位で参加したセミナーでしたが、1時間ぐらいのセミナーで、ハンドマッサージをしてもらってる間、自分がマッサージしてる間、体の60兆個の全細胞がジンジンと歓喜してる感覚に陥りました。
体全身が「嬉しい!」と喜んでいる感覚です。
おそらく前世で、同じような仕事をしていたんじゃないかと思うくらい、感動と喜びを感じたのです。
これだ!私これがやりたい!と。それが私のボディマッサージをやり始めた原点の出来事でした。
不思議なことにその翌日、主人に話をしている時に、新聞の記事を見て、「おい。こんなの出てるぞ」とアロマセラピースクールの記事が出てるのを教えてくれたのです。
直ぐに問い合わせて神戸の甲子園口にあるアロマセラピースクールに申し込みました。次男はまだ1歳半。
スクールの日は子供を友人に預けて、通学する日々。そこから、約1年でアロマの知識とトリートメントの技術を取得し、アロマのスクールまで開くことになりました。
そこから一年、お客様にアロマトリートメントの施術をしながら疑問を感じるようになります。
お客様の体が自分の技術や知識では、ケアできない壁にぶち当たったからです。ボディマッサージってこんなものなのだろうか?もっといいものがあるのではないかと、いいもの探しを始めました。
当時はスマホもなく、パソコンも無かったので、雑誌で掲載されているエステサロンの記事をスクラップし、サロン周りを始めたのです。
そこで出会ったのが、3ヶ月先しか予約が取れないサロン。それまではどんなサロンも直ぐに予約が取れたのに、3ヶ月先しか予約が取れないサロンて、どんなサロンなんだろうと、直ぐに予約をし、待ちに待った3ヶ月後に施術を受けたのです。
そこは一軒家のサロンで私が住む京都の亀岡から2時間かかる大阪の千林大宮にありました。
当時、隠れ家的サロンの先駆けになった所で、20年前で施術料金2万円でした。
もう、腑抜けになるくらいにほぐされ、今まで私がやっていた施術はなんだったのだろうと一回で虜になったぐらい当時の私にとっては強烈な衝撃を受けました。
施術後直ぐに「この技術を学ばせてください」と頭を下げお願いしました。
そのサロンに弟子入りをお願いしたタイミングで師匠がスクールを立ち上げ、運良く第1期生として学ぶことができ、さらにサロン研修として丁稚奉公的に働く事ができたのです。
その時に師匠に伝えた言葉があります。
「私に自信をください」と。
自分の亀岡のサロンは土日だけに絞り、平日は、毎日往復4時間をかけて半年間、師匠のサロンで修行させていただく事ができたのです。
当時の私は、技術の向上を目指し、もっと上手くなりたい一心でした。
日当2000円。交通費は往復3000円。交通費は出なかったので、毎日赤字。その赤字は自宅サロンの少ない売り上げから補填。
それでも、学びたかったんです。3ヶ月先まで予約の取れないサロンの技術者になりたかった。月曜日はスクール。火曜〜金曜日はサロンで丁稚奉公。
生活費を稼ぐために始めた仕事が、自分の楽しさへと変わり、もっともっと技術を高めたい衝動に駆られていきました。
朝7時に息子達を保育園に預け、夜7時半に迎えに行く日々。いつも朝は息子達が一番乗り。夜は暗くなった保育園の明かりが灯る一室で、最後まで残ってるのも私の息子達でした。
そんな中、通勤で目にするエステサロンの広告は、美白ケア、毛穴ケア、痩身、脱毛ばかり。それは今でもあまり変わりはないと思いますが、私はなぜか違和感を覚えていたのです。
エステってそんなものなのだろうか?それだけではない気がずっとしていました。
師匠のサロンに来るお客様は、体の疲れを取りに来るお客様ばかりだったからです。3時間という時間の中で、日頃の疲れを取りに来る。ハーブのお風呂に入り、体を温め全身くまなくほぐしながら発汗させる。
いわゆるインドエステ。今で言うリンパマッサージの様なもので痩身メニューです。
師匠は当時、その技術力を評価され、千手観音の手と賞賛され、何度も雑誌で取材を受けていました。千手観音の様に手が何本もあるかの様に体をもみほぐすと言う本当にゴッドハンドだったのです。
修行に入った私は技術を教えてもらえると思ってました。でも、一つも教えてもらうことはなかった。
教えてもらったのは、タオルのたたみ方。しまい方。掃除の仕方。接客のフォロー。洗濯。洗濯たたみ。タオルのしまい方が悪ければ、なんどもやり直しをさせられました。
厳しい師匠だったので、仕事に行ってもずっと泣いてました。修行中の半年間のうち、半分は泣いていたと思います。
師匠の施術を施術ルームの小窓から覗き見ることが唯一の楽しみでした。少しづつサロンで施術に入ることができる様になって行った、そんなある日、事件が起こります。
長男が風邪をひき、40度の熱を出したのです。
その日私は、サロンで予約が入っていたのでどうしても出勤しなければなりませんでした。私が行かなければ、3ヶ月待ってもらった新規のお客様をこちらからキャンセルすることになってしまいます。
主人が仕事の合間に家に帰って様子を見てくれる事になり、熱を出してうなされる子供を置いて、後ろ髪を引かれる思いで電車に乗ったのです。息子はまだ保育園の年中。4歳でした。
施術を終え、早めに帰らせてもらい家に帰ると、まだ熱が下がらない息子のホッとした顔を見た途端、込み上げてきました。
「ごめんね。ごめんね。」
何度も顔を撫でながら謝りました。「お母さん、仕事やめるわ。」その時、息子から出た言葉は一生忘れることはありません。
「お母さん。仕事好きなんやろ?だったら続けーさ。仕事辞めんでいーやん。」
この時の事を息子に話すと、全く覚えてないといいます。当たり前だと思いますが。でも、この仕事をやめようと思うたびにこの時の息子の言葉を思い出し、あの時の息子の我慢を無駄にすることはできないと、思い直すのです。
そこから半年間の修行期間を終え、自分のサロンに帰る時、師匠が色紙を下さいました。そこには、
「自信とは、自分を信じると書く」と書いてありました。そして、修行を終える時のレポートに私が書いた言葉
「私はすぐに倒れる植林の木ではなく、森の中に人知れずひっそりと佇む大木になりたい」
今でもずっとその言葉は私の指針となっています。